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急変②~劇症型心筋炎との闘い~

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劇症型心筋炎で心停止。怒濤の1日が始まる 
急変②~劇症型心筋炎との闘い~

劇症型心筋炎で心停止。怒濤の1日が始まる ~劇症型心筋炎との闘い 急変②~

べッドに入ってすぐだった。枕元の携帯が鳴る。今日の私の心臓は一生分のドキドキを受け止めたと思う。

「はい!」急いで取る。私の電話かどうかの確認の後、看護師は急変した事を言う。

「不整脈が出て心停止しました。心臓マッサージをしています。今、こちらのスタッフが一所懸命処置を行っていますので、すぐにいらしてください」

私もこんな電話を何回もしてきた。今までは、電話をする側だった。

私の場合は、急変の場合でも、看取りの患者ばかりで延命を希望していない家族が相手。自発呼吸が止まっていても、心拍が止まりかけていても、急いで来院してもらったところで高齢患者で何も処置しないのに、家族が間に合うはずがない。

なので「家族さんも、慌てないで事故なく来られてくださいね」と必ず伝えていた。

そして、家族が到着して死亡確認を行っていた。


私は急変と聞き「えー!!」声をあげたというより、悲鳴をあげた。

「すぐ行きます!」と言いながら「で、今はどんな状態ですか?!」と聞いたと思う。

看護師は「今、こちらのスタッフが一所懸命処置を行っていますので、すぐにいらしてください」としか言わなかった。

数分か、数秒か…ほんとに短時間の電話をしながら、ベッドから起き上がり、寝室から飛び出て、廊下に出てすぐにある次女の部屋のドアを開け「パパのところに行くよ!」と声をかけながら、次に長女の部屋のドアを開けて同じ事を言いながら走った。長女も次女もロフトベッドを飛び降り、階段を駆け下りた。

パパ自慢のおしゃれな吹き抜けの真っ白の階段は、3人が駆け下りる音が響いていた。

お守りのように準備していた上着と靴下、バッグ…

お守りにはならなかった。


長女も「急変って、どんな状態なん!?何て言われたん!?」医療従事者ならそう思うであろう。

呼吸が止まったのか?心臓が止まったのか?そうなる前にPCPSに繋ぐ為の電話なのか?もう、挿管して呼吸器に繋いでいるのか?PCPSにはスムーズに繋げたのか?これからなのか?

私は、長女の質問に「わからん!今、一所懸命処置しています。しか言われんかった!」と答えた。

とにかく急いで行かなければ!ただ、その気持ちしかなく、娘達を乗せて、車を走らせる!心臓がバクバク口から出てきそう…過呼吸になりながら運転する。

長女はそんな私に「お母さん大丈夫よ!」「お母さん、信号赤!」交差点では「こっち大丈夫!」ずっと言い続けてくれた。次女は、この状況に気持ちが追いつかない感じで、長女の言っている事に対して、「こっちも大丈夫」「もうすぐ青よ!」とか言っていた。

病院が近くなると、長女が指示してくれる。勤務先の病院っていう事が心強かった。

「車は正面玄関に横付けしてかまんけん!」そう言われて、正面の邪魔にならない端っこに止めて玄関に入る。と同時に警備員が出てくると、「急変です!患者家族です。職員です!」と長女が言いながら、私と次女を先導してくれる。「こっち!」と3人手を握りあって走った。「エレベーターより階段が早い!」という判断で、7階まで一気に上がった。

この頃、この病院は新築移転途中で、増築を繰り返した旧館と、できあがった新館に一部移転した外来もあり、なかなか複雑な構造になっていた。

夜という事もあり、長女がいなければたどり着くのにもっと時間がかかっていたであろう。

CCUの病棟に到着しても、すぐに長女が看護師に声をかけに行ってくれる。この夜の勤務は長女の同期もいた。

パパはこの時、CCUにはいなかった。アンギオ室で処置をしていると聞かされ、長女に先導されながら走ってアンギオ室へ急ぐ。



この後の状況は、本音を言うと思い出したくもない。でも、忘れられない。

日中も座って待っていた廊下のアンギオ室前の長椅子。でも、この時の長椅子の感触、目に入る検査室のドア、壁、手摺り…全ての物が同じ場所とは思えない感覚であった。

廊下で3人。泣きながら、手を握り合いながら、黙って時間が経つのを待つ。

耳に入ってくる音は心臓マッサージの音。バンバン響いて…もう2度と聞きたくない。

「はいっ!やめて!」「アドレナリン投与から○○分!」「もう一回!」そんな声を何回、どのくらいの時間聞いていただろう。すごく長い間やったような気がする。

その時に思っていた事は「心臓マッサージをやめないで!諦めないで!私を呼びに来ないで!」早くこの状況から脱したい気持ちでいっぱいであったが、「奥さん中に入ってください。」と言われるのも怖かった。

だから、何か安心材料を耳にしてから呼ばれたい!って、思っていた。

泣いて待つ長女に、コードブルーで集まってくれたその日の夜勤の看護師。長女の先輩達が説明に来てくれる。

「今、PCPSに繋いで、IABPしている。」「はい。」

私より、長女の方が説明を聞いて現状把握は早かった。どんな状況か…理解すればするほど辛かったと思う。

尚更泣けてくるよね。そんな長女の頬をパチン!救急認定看護師の先輩が「お父さん、頑張りよるんよ!あなたがしっかりしなさい!」渇を入れてくれた。

私は、お母さんであり看護師で妻やけど、この時は放心状態で、ただただ、心臓マッサージの音がしなくなるのが怖くてしかたなかった。でも、はやく自己心拍再開して欲しかった。


30分程経過した頃に呼ばれた…

アンギオ室に入ると、ガラス越しにパパがいた。

パンパンの身体と顔は「また、明日の朝くるね!」と手を振った時のままやけど。

呼吸器がついてPCPSに繋がれていた。もちろん、目を開けてこっちを向いて手を振ることはない。その姿を見るだけで涙が出る。倒れそう。「パパ…」

長女も次女もパパを見て泣くしかなかった。特に次女はまだ16歳。看護科と言えど、5年かけて国家試験を受ける課程の1年生。自分の父親のこの姿を、そう簡単に受け入れられる訳がない。


2年後の受診で、やっと、ずっと聞きたかったけど、怖くて聞けなかった事を、この時に対応してくれた循環器医師に聞くことができた。

「どのくらいの時間、心臓が止まっていましたか?」

循環器医師はカルテを見て急変時の説明をしてくれた。

2020年1月25日 

1:25頃から呼吸苦訴えあり酸素増量。突然VT(心室頻拍)モニター100~200。看護師により心臓マッサージ開始。

1:30 医師Call。医師到着時は看護師が心臓マッサージ施行中。コードブルー。AED施行も心拍戻らず。VT.

1:45 カテーテル室入室。アドレナリン3回投与。

2:04 PCPS開始。

この記録から言うと、私達が病院に到着してアンギオ室前で待っている時間は、実際に感じていた時間より短い。

でも、凄く長く感じていた。


循環器部長のM医師からIC。

「劇症型心筋炎です。こんなに早く急変するとは思っていなかった。今、心臓の炎症は大きく、PCPSとIABPで管理している。このまま心臓の回復を待つしかない。PCPSで心臓の補助をできるのは3~4日。その間に回復するかはわからない。急変する確率、亡くなる確率も高い。CKが1万1000ある。1万5000までいくと難しい。ステロイド療法もあるが、一か八かで難しい。」

医師は、「受診のタイミングも良かった」と言っていたが、その時は、長女も私もそうは思えなかった。

さっきCCUで別れたパパとは全然違う!もっと早く受診していれば…もっと強く言っていれば良かった。後悔した。

でも、時間が経過して冷静に考えると「受診のタイミングは良かった」そう思える。

仮に早く受診して、入院加療していたとする。熱源がわからないままの経過観察や、検査入院であった場合は内科の一般病棟へ入院していたであろう。重症の心筋炎の診断がついていなかったら、CCUには入院していない。循環器に入院していてもCCUでなければモニターもついていない。もちろん、シースも入れていない。

そうなるとどうなっていたか!?おそらく、入院していても急変に気づかず、深夜の巡回で呼吸停止、心停止しているところを発見。ということになっている。

病院に入院していたら大丈夫な訳ではない。そんなことは、看護師だから痛いほどわかる。

でも、その時は、この状態で「良かった事があった」なんて思えない!と思っていた。


<急変後の血液検査結果>

CRP8.90↑(正常値:0.18以下) トロポニンⅠ120.419↑(正常値:0.047以下)CKーMB205↑(正常値:5~25) CK1815↑(正常値:62~287) 肝機能、腎機能も高値


ICの後、CCUに帰室。また、ロビーの椅子で待つ。深夜帯のロビーは暗くて、静かで辛くて…「パパ。これからどうしたら良い?!パパがおらんなる事なんて考えてなかった。」

私は、庭木の剪定から料理、裁縫、ちょっとしたDIYや、家事も育児も、自立した仕事もやってきた。地理感覚がない事と、車の運転が嫌いな事以外は何でもできる!そう言ってきたけどね…できたのは、パパが一番近くにおったけんなんよ。そう思って涙しか出てこない。

長女の手記では、そんな私の姿を見て

「先輩看護師が言ってように、私がしっかりしないと!私がちゃんと話を聞いておかないと。」と気張った。でも、やっぱりつらい。病棟に行って夜勤をしていた先輩看護師に会った。「休んだらいい。無理すんな。看護師の変わりはようけおるんよ。」と。優しさがありがたかったし、先輩に会ったことで糸もほどけた。いっぱい泣いた。でも、パパも頑張っとる!

CCUに戻ったら、隣の患者が亡くなっていたようで寝台車が来た。嫌なことしか頭に浮かばない。「パパはコロッと逝くんよ」って、言よったパパが浮かぶ。絶対嫌!一緒にもっとしたいことがあるんよ!

面会できます。と言われてCCUに入ると、ベネット、PCPSがついていて、半目のパパ。涙が出てたまらんかった。「自発呼吸はあります。ずっと絶え間なく心マしていましたので脳へのダメージは少ないと思います。心臓の動きもエコーでは悪くないです。PCPSで状態をみましょう」と循環器医師。「パパ。聞こえとる?まだ、置いて逝かんといてよ。まだ、早いわい。」と、手を握りながら言うお母さんはずっと号泣。みんな辛いし、泣くけど…でも希望は捨てたらいかん!絶対に!

と書いてあった。


その時の私が覚えていることは、握ったパパの手が冷たかったこと。硬くはないけど、冷たかった。パパの手はいつも温かった。私の手の方が冷たくて、「まぁちゃんより、わしの方が心が温かいんじゃ!」って言っていた。「逆です~!心が温かい人の手が冷たいんです~!」と言い返していた。昔から、娘達が生まれる前から、二人で言いやいしていた…

「耳を搔く為に伸ばしとる」と、ずっと伸ばしていた両手の小指の爪も、男性のわりには細い指も、薬指のほくろも、いつものままのパパの手。でも、動かないし冷たい。

補助循環装置をつけても手が冷たい。それは何で?!末梢循環が十分でないって事!?

口には出さなかったけど、たぶん、そんな不安が心の中にあったと思う。

挿管したパパの顔を見るのも辛かったけど、握っても握り返してくれない手が本当に辛かった。辛くてその場を逃げ出したかった。ベッドサイドにずっといることができなかった。


家族控え室として隣の部屋を案内してくれた。その時は私と娘達の3人。「誰に連絡したら良い?どう伝えれば良い?どこまで伝えたら良い?あっ、お葬式…。会社。Mちゃん、U、Y子さん…電話?でも、深夜やし。LINE?」そんな話を長女と二人でした。次女はまだ16歳。長女とは6つ離れていて、パパも私も可愛くて、随分甘やかせて育ててきた。感情を抑えることが苦手な子であった。

次女は、私的に見て「眠い」としか感じられなかったけど、後から次女が言うには、その日、微熱があり、体調が悪かったらしい。

3:42 朝、起きたら見る事ができるようにY子さんにLINEしておく。「連絡あって○病院に来てます。処置は終わって、CCUに戻ってきた。今はPCPSとレスピに繋いどる。簡単な説明は聞いた。また後でICあります。」

4:09 Y子さんから「私も行ける?」と、LINEが入っていたが私はパパのベッドサイドに行っていて気づかなかった。Y子さんは、たまたま隣の市まで息子を送って行って行き、起きていたようでLINEに気がついたと言っていた。


朝が来るのを待って、必要な人に連絡しよう。叔父さんの葬儀の喪主をする従兄弟のTちゃんと、パパと兄弟のように育ったもう一人の従兄弟のO君には、葬儀が終わってから伝えよう。と言うことになる。パパの両親は他界しており、兄弟はお義姉さんだけ。

最初に来院してくれたのはY子さん。LINEの返事を返してなかったけど、病院まで来て、関係を聞かれた時には「親戚です!」と言い、控え室に案内してもらっていた。

長女の手記で「お母さんと絶対大丈夫!奇跡の塊!ずっと言い合っていた。急変で呼ばれた時、過呼吸気味で震えとったのに頑張って運転してきてくれたお母さん。パパ、治ったら絶対感謝せないかんよ。」とあるが、私にはその時間の記憶があんまりない。

5:00頃にお義姉さん、Mちゃん、U、パパの会社の部下K君にも連絡。

お義姉さん、Uが来院して、CCUではお義姉さんだけ面会。「まだ逝ったらいかんよ!私より先に逝ったらいかんわい。」泣きながら、ずっと声をかけてくれている。パパは嫌かもしれんけど、お義姉さんはずっとパパの顔を撫で回していた。

9:00頃に回診があると聞いた。それまでは私はちょこちょこCCUで面会していた。でも、ただ黙って手を握って、指を見て、泣くことしかできなかった。声をかけ続ける事もできなかったけど一つだけ言ったのは覚えている。

「パパ。今まで一緒におって、パパにお願いしたことなんてなかったやろ?何かをねだったこともない。ほやけん、今だけは、まぁちゃんのお願い聞いてや…

頑張って!まぁちゃんをおいて逝かんとって!お願いやけん…」

と、パパにお願いをした。

私は、若い頃から物欲がない。服も、靴も、食べるものも、特にこだわりもなければ欲しがる事もなかった。服も靴もパパの方が多かったし、こだわりがあった。そして、私の性格上、何でも自分でやりたいし、クオリティは違っても、他人にできて自分にできない事はない!人間やる気になれば何でもできる!と常日頃思っている。

そんな私がパパにお願いする事は、車の運転と管理ぐらいで、他には頼ることもお願いすることもなかった。

きっと伝わるはず!この私がお願いしよるんやけん。という気持ちでパパに話しかけた。

TVや映画のように、瞼がかすかに動くとか指が動くとか…そんなことはない!だって麻酔が効いているからね。逆に動いたらいかんやろ。

家族控え室では、何があっても絶対諦めん!まだ、死なせたりせんけんね!ってみんなで意志を固めた。

回診までに、Y子さんに頼んで次女を一旦自宅へ帰らす。

理由は、夜だけ愛犬を玄関収納に置いてあるゲージに入れている。朝起きたらすぐに、ご飯をあげて外に放してやっている。外に出るまでトイレもしない。

そして、愛猫も私達が寝るときには室内のゲージにいれている。我が家の朝の始まりは、ペット達のお世話から始まる。

このままずっとほっておくわけにもいかない。そして、急変に備えて準備していたが、この日は雪も散らつくほど寒かった。自分達も急いで上着をかけて来ただけでは寒かった。

誰かが一旦帰宅しないといけない…

自宅は郊外で、病院は街中。もう少しすると混み合ってくる。動くなら早朝の車が少ないときに!そう判断して、次女を一旦帰宅させた。

次女は「みんなとパパの側におりたい!」とムッとした顔をしたが、私は「誰かが帰らんといかん!まぁまが帰る訳にはいかん!ここで寝よるだけなら帰ってやれることをやりなさい!道が混む前に動きなさい!」厳しく言う。

次女を乗せて帰ってくれたY子さんから後から聞いた。

自宅へ帰る車中で次女は号泣していたと。「眠たくて寝よったんじゃない。昨日から微熱があってしんどかった。ねぇね(長女の事)みたいにまぁま(私の事)と一緒に話も聞けれんし、何にも役にたたんけど…わかっとるけど…」と。


私も厳しかったと思う。でも、誰かがやらないといけない事。

できる人ができる事を、できる時にやる!それがベストな選択であると思う。

そして、この時私が次女にお願いしたのは、次女を信用しているからでもある。

次女はもともと動物に優しい子で、我が家のペット達のお世話も私の代わりに任せられる。いちいち指示しなくても、ちゃんとやってくれると信用していた。だから、次女に帰らせた。

私の判断は間違っていなかった。道路が混み合う前に病院から自宅へ、自宅から病院に戻ってくることができた。


回診が終わってIC。

「心臓の動きが悪くなっている。このままPCPSを回しただけでは良くならないかも知れない。大学病院にIMPELLAがある。導入するなら早めの転院、週明けぐらいか…転院可能な場合は急なことになりますが、どうされますか?」

と、いうような内容。

気が動転している事もあり、正直ICの内容を正確に理解できたか?!と言われるとわからない。

私の中での判断基準となったのは、選択肢が増える事。人は選択肢がなくなることが一番怖い。

今の状態より悪くなったときに、次にできることがあれば心強いし、希望になる。

選択肢がなくなった時に絶望という言葉を使うのだと思う。

私はこの時から選択肢を探し求めて、自分で都合の良い希望に換えていく事になる。そして、その選択肢を求めて希望に換える事は現在進行形でもある。

もちろん、この時の私の決断は「大学病院への転院」をお願いした。

ここから奇跡の生還第2幕が始まる。


<転院前10:00血液検査結果>

CRP10.94↑(正常値:0.18以下) トロポニンⅠ109.602↑(正常値:0.047以下)CKーMB231↑(正常値:5~25) CK5728↑(正常値:62~287) 肝機能、腎機能もさらに高値で AST639(正常値:13~33) ALT191(正常値:8~42) LDH2223(正常値:119~229) Dダイマー128.0(正常値:1.0以下)

白血球265.7(正常値:30.4~96.4) 


私達の知らないところで、県内のハートチームの連携を始めていてくれていた。

M医師から大学病院のA医師の携帯電話に連絡。この時A医師は九州から帰ったばかりで、電話を受けたのは空港で飛行機から降りた直後であった。電話でパパの病状を聞き、すぐに転院可の返事をくれた。

「ほんとに奇跡を感じた!」と大学病院入院中にA医師から何度も聞いた話。

この日は土曜日であったにも関わらず、A医師は大学病院へ受け入れの連絡をしてくれたのであろう。そして、このままでは助からないかも知れない。と判断して迅速に転院の申し入れをしてくれたM医師にも感謝しかない。

今では新型コロナが認識され、ECMOを扱う病院も、医師も増えているが、当時は県内ではECMOの管理できるスタッフも医療施設も少なかった。ましてや、IMPELLAなんて扱える医師はもっと少なかったと思う。

当時の説明でも、「今は、大学病院でしかできない」と聞いていたし、その大学病院でもIMPELLAが何個もあるわけではない。

1年ぐらい経ってから私の元職場の人から聞いた話だが、この時県内には1台しかなくて、扱える医師もかなり限られていたと。もしかしたら、A医師がいないと挿入できていなかったかも…もし、他の人に使っていたら、パパは無理やったかも…と。

そんな状況で転院可能になったのは「奇跡」と言うA医師の言葉通りなんだと思う。


転院が決まってからは、心がついていかないのと、寒さで震えっぱなしであった。

転院は14:00着に決定。パパは救急車で、同行は医師と看護師、臨床工学技士。人工呼吸器、PCPS、IABP、酸素、点滴…とにかく機械がいっぱい。医療機器と同行する人で救急車内は精一杯で、機械を置く台は別の救急車で運ぶ事になる。病院の救急車で設置台と更に臨床工学技士が2名一緒に同行。家族は自車で移動。と説明受ける。

転院が決まってすぐ、ちょっとズレていたらしく、IABPのカテーテルの挿入し直しが決まる。パパは、CCUからアンギオ室に移動する時、エレベーターに乗るためロビーに出てくる。その時、Y 子さんとUは、初めて機械に繋がれたパパを見る。2人ともショックが大きくて泣いていた。CCUから出てきた瞬間に口を押さえていたけど、嗚咽が漏れるほど泣いていた。

Y子さんも看護師。でもね、看護師でもあんな姿は滅多に見る事はない。

「Y子さんとわしは、前世で姉弟やったんやないか!?」って言うほど、好みや性格が似ていて仲が良かった。親友の旦那やけど、友人。

Uは、年末年始は我が家で過ごし、パパの親戚の法事にも一緒に参加する弟みたいな人。

そんな2人にとって、パパの姿は衝撃が強すぎたね。たぶん、私達がパパをみた時と同じ衝撃やったと思う。

そのままついて行き、アンギオ室前で待つ。昨日から、この椅子でどのくらい待ったかな。この長椅子で待つのは恐怖しかない。そう思っているとき、循環器病棟の師長が来てくれた。私に挨拶し、転院のことを話した。その後「ちょっと」と、長女を呼んで離れた。

「何?!私には聞かせれない事?!悪いこと!?」また、不安で心臓がバクバクしていた。

Y子さんも心配していて「何話しよるんやろ?」って言っていて、私と2人で長女と師長の様子をずっと見ていた。

わりと長い間話して戻ってきた長女に「何?パパの事?!」ドキドキしながら私が聞くと、パパの事ではなかった。長女がパパの電子カルテを開いて見た事を注意された事だった。

Y子さんと2人で「この状況で今言う?!それもあんなにしつこく長い間!?師長やのに?!」と、正直腹が立った。

たぶん、パパが喋れたら

「わしのカルテを娘が見て何が悪い!わしが見てかまん!って、言うたら、見てかまんのじゃ!ここの看護師やのに家族のカルテも見れんのか?!銭にならん!しょーもない!」

って、怒ると思う。間違いなく言う。そういう人やけんね!


無事にIABPの入れ替えが終わりCCUに戻る途中、長女と仲良くしてくれているH医師も声をかけてくれる。「僕にできることあったら、何でも言ってね」長女は心強かったと思う。やっぱり医師の言葉って胸にささる。

ぼんやりしている暇も、不安に浸っている時間もない!みんなの段取りの指示を私がしなければ!

転院後、スムーズに処置ができるように、私はパパより先に大学病院で手続きをしておいた方が良い。同時に到着したのでは、パパの姿を見る前に処置に入ってしまうかもかも知れない。そう考えて、私と次女は先に出発して、自宅で手続きに必要な印鑑などを取り、大学病院で待つ。前日就業後に一緒に帰宅した長女の原付も置いたままなので、長女は、パパが救急車に乗って出発したのを見届けて、原付で自宅に帰る。自宅に帰った長女を乗せて行くために、Y子さんは、私達と一緒に出発して、自宅で長女を待つ。1人で見送る長女を気遣い、Uが一緒にパパを見送ってくれる事になる。

「大学病院に行くんよ!先に行って待っとるけんね!」パパにそう声をかけて、次女とY子さんと先に出る。駐車場でY子さんが「1月4日生まれは生命力が強いんよ!私も生死をさまよった事があるけど、ちゃんと帰ってこれたけん!絶対大丈夫!」そう言ってくれる。

私は、救急車は速いので、急いで準備して大学病院へ向かった。

でも、そんなに早くなかった。見送った長女が言うには、救急車に乗る事が大変で、時間がかかったと。パパの体重が重いし、機械が多いし、10人ぐらいで乗せたらしい。手伝って下さったスタッフの皆様、ありがとうございました。結局、出発は13:40頃。


私と次女は一旦帰宅して、印鑑などの準備をして、帰宅が遅くても大丈夫なようにぽっぽとわさびの事をしておく。

車で10分程度の距離の大学病院へ次女と向かう。雨が雪に変わって、凄く寒かったのもあるけど、救急車で搬送中に状態が急変しないか?機械にトラブルなく無事に到着できるか?仕方のないことだけど、今、この瞬間。パパと一緒にいられないのが凄く不安で、大学病院の駐車場で車を降りてからは足も手もずっと震えていた。

まだ、救急車の音も聞こえていないのに、夜間休日受付に走って行った。

「○病院から救急車で搬送しているんですが、到着するまでに手続きをしておきたいんです!」何をそんなに慌てる事があるのか…今でも理由はわからないが、とにかく救急車が到着したときには、私も一緒にストレッチャーを押す事になっているかのような感覚やった。

「承諾書や申し込み書…いろいろサインがあるでしょ?!」

自分で言っといて、出された書類をしっかり読まずに、とにかく住所、本人の名前、私の名前、連絡先…ひたすら記入していった。その字は震えてうまくかけてなくて、ほんとに汚い字やった。そして、普段の生活ではあんまり使わない言葉の「妻」と言う字をこの2日間で何回も書いていた。自分の名前を書き、続柄「妻」また次の書類に名前を書き、続柄「妻」何枚も書いていると涙がこぼれそうになる。「妻」という字がなんでそんなに辛かったのか?わからないけど、この字を書く時、辛くて辛くてしかたなかった。

必要な書類にサインをして、印鑑を押して、保険証も提出して…全て終わっても救急車はまだ到着していなかった。

外は粉雪が降っていて、救急車の到着するスペースは風が入り込み、雪が舞いながら吹き込んでいた。次女と私は、救急車の音が聞こえるように外で待っていたが、寒さと不安で喋る声も震えていた。そうこうしている間に、出発を見送った長女が先に到着する。

長女はパパの出発を見送り、原付バイクで自宅へ帰り、バイクを置いて、待機していてくれたY 子さんの車で大学病院まで来た。長女が来たことで、乗車に時間がかかった事はわかったが、不安は続いていた。

「何かあったんかな?遅いよね?大丈夫かな?」

あんなに救急車の音を待ちわびる事は、今まで一度もなかった事で、二度と経験したくない。

手も足も震えて待つ中「来た!?」角まで出て待つ3人。ゆっくりこちらに救急車が入って来る。

「何で音鳴らさずに来たん?!」3人で言うが、そんな気持ちはすぐにどうでも良くなる。

雪はまだ散らついて風もやんでいない。中に入る間だけでもやんで!そう願うけど、全然やむ気配はない。

到着してドアが開くとすぐ、○病院から付き添ってくれた看護師、医師、臨床工学技士の3人が降りてくる。そして大学病院の医師、看護師も救急車へ駆け寄る。

乗車も大変なら、降車も大変なのは当然のこと。でも、乗車の時は、私は現場にいないので、すぐに病院内へ入れると思っていた。

パパは、機械がいっぱいついているのと、身体が大きかったので、病衣を上から掛けていた。寒さ対策でアルミのシートを掛けていてくれたが、肩は皮膚が露出していた。

この状況でその姿を見ると「寒いけん、早くしてやって」と思っていた。救急車から降車しても、中に入らない。「何で?!何かあった?!」また、不安で心臓が暴れる。そして、また救急車の中に戻る。「何で?!何で?!何で!?」

そう思うけど、聞きに行ける空気ではないし、聞くのが怖かった。何も喋ってないけど、口も震えてガチガチ言っていた。

○病院と大学病院のスタッフの会話が聞こえて、「台がまだ!」と言っていたのを長女が聞き教えてくれる。

「台?!何なん?!」その時、すぐには理解できなかったが、パパの乗った救急車には機械を設置しておく台を乗せる事ができなくて、もう一台の救急車で台と臨床工学技士が乗車して向かって来てくれていた。この救急車は○病院の救急車。

2台の救急車は連なって来た訳ではなく、出発に時間差があったらしい。

そんな訳で、大学病院に到着後も、すぐには院内に入れず、しばらく待つ。

「早く来てくれんかな!?」3人で震える声で話す。ホントに寒かった。

また救急車の音を待ちわびていたが…静かに救急車が入って来る。また3人で、「何で音鳴らさずに来たん?!」言う。そしてまた、そんな気持ちはすぐにどうでも良くなる。

後から到着した救急車から臨床工学技士の3人が走って降りて来て、台を運んでくれる。そのタイミングで「家族の方!」呼ばれる。大学病院の医師からIMPELLAについて説明がある。一刻を争うのか、随分早口で説明された感じがした。まぁ、この時の状況であれば、じっくり質問する空気でもなかったし、ゆっくり説明されたら逆に「早く処置して!」って思ったであろう。大学病院の医師の口調は、これで正解!と、思う。

そして、またIMPELLAの承諾書のサイン。説明が終わりかけた頃にパパは処置室に入ってくる。「移すよ-!そっちしっかり持って!」そんな声を聞くと「すみません。めちゃくちゃ重いんです。パパ!ほやけん何回も痩せろ!って、言うたやろ!?」そんな事を考えて、

もう、そっちが気になって…気になって…

この時もまた、名前、続柄「妻」を最高に汚い字で書いた。もう、何回書くんやろ…

それから、処置が始まる。何の処置やったかはわからないが、胸部のレントゲンを撮る時に、フィルムを背中に敷くのが大変そうやった。○病院の臨床工学技士、看護師、医師も処置室に入り、大学病院のスタッフに申し送ったり、機械を設置したりしてくれていた。

大学病院の医師からステロイドパルス療法の話があり、「○病院でも聞きましたが、決めかねています。」と言うと、「この状態ならやった方が良いでしょう!やりましょう!」と、あっさり言われる。背中を押された。

劇症型心筋炎になったのが、自己免疫の暴走でなかったら…免疫を抑制してウイルスが増殖したら…一か八かの治療…

そう思うと怖くて決めることができなったけど、この医師にそう言われて「やった方が良いんですか?」ちょっとびっくりした感じで聞く。

「やった方が良いでしょう!」そう返事が返ってきた。

そして私は「はい。お願いします」と、すっと言えた。

IMPELLAを扱う大学病院の循環器医師なので、重症の患者をたくさん診てきているでしょう。その経験があって、パパはやった方が良い。と言うならばそうなんだろう。と思う気持ちと、心臓は1回止まったけど、今、こうして転院できたのは絶対大丈夫やから!って、思った。

○病院では、ステロイドパルス療法をしていない状態で、PCPSとIABPだけでは、心臓の状態は悪くなっていた。ウイルスの増殖は止められてなかったということ。あのままステロイドパルス療法をやらなかった場合、心臓の回復はなかったであろう。そうなると、数時間後には再び心停止。今度はもう、戻らない。

やらなくても、死んでしまうなら、一か八かにかけてみよう!選択肢があるんなら、その選択肢をやってみよう!

咄嗟にそんな気持ちもあった。

処置が終わり、パパは手術に向かった。

予定では5時間程度。私達は家族控え室で待機した。控え室は、私達3人と、Y子さん、U、後から来院したMちゃん、パパの部下のK君。叔父さんの葬儀を終えて、着替えて駆けつけた義姉家族。合計10人で待機していた。深夜から寝ずにいた私達は疲れ切っていた。「ちょっと休んどこや」と、ソファでウトウトする。

この時も、後から駆けつけたMちゃんは、廊下や控え室で黙って待つことができない。Mちゃんは、急変した後のパパと会っていないので、この状況の深刻さもイマイチわかっていない感じがした。他の患者の家族がいた時間もあって、「Mちゃん静かに!」と何度か注意するが、いつもの感じで「また、怒られちゃった」って顔をする。いつも明るく場を盛り上げてくれる人なんやけど…シリアスな場面には、不向きな人。

「ちょっとでも会えんのかな?!」と、しきりに言う。「わからん」

「やっぱり家族やないといかんのかな?!」「わからん」

「ワンチャン、ICUに入る時に通るかも?!手術室はどこ!?」「わからん」

説明図を見ては「ここの手術室なん?!ほんならここ通るんやない?!」「わからん」

もう、うるさい!!黙って待って!休むどころかイライラしていた。

でも、そんなMちゃんを黙らす時が来た!

予定通り14:30~19:30、無事にIMPELLA埋め込み術は終了した。

1人、関係者以外立ち入り禁止の自動ドアに張り付いていたMちゃんが「出てきた!?」一言いうと、自動ドアの端っこに頭をつけてうなだれる。

手術室からICUに入る時、ベッドが廊下を横切る短い距離、パパを見る事ができた。

距離は短いけど、機械がたくさんついているので、ゆっくり移動して時間がかかる。その姿を見てMちゃんはショックで黙る。

元気な頃から、Mちゃんを黙らす事ができるのは、パパだけやったね。病気になっても、その役目はパパだけみたいよ。


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